同じ家で長く暮らしていても、どうしても噛み合わない感覚が続く家庭があります。
価値観の違いや性格の不一致として説明されることもありますが、それだけでは整理しきれないズレが残る場合もあります。
そのズレを辿っていくと、「考えるか、あまり考えないか」という、ごく基本的な違いに行き着くことがあります。
ここで言う「考える」「考えない」は、思いやりの有無や人としての優劣を指すものではありません。
物事を判断するときに、どこまで振り返りや想像を含めるかという傾向の違いです。
考える側では、言動の前後で一度立ち止まる工程が入りやすくなります。
言い方が強くなりすぎていなかったか、相手はどう受け取ったか、踏み込みすぎていなかったか。
判断の中に、相手の受け取り方を含めて整理する動きが自然に組み込まれています。
一方で、あまり考えない側では、その場で判断し、動いた時点で一区切りになる傾向があります。
自分の中で必要な行為が完了したと認識できれば、振り返りはそこで終わることが多くなります。
相手がどう感じたかは、問題として表に出ない限り、判断材料に入りにくい場合もあります。
この二つの傾向が同じ家庭にあると、矛盾して見える出来事が起こりやすくなります。
ある場面では距離を詰めすぎているように感じられる一方で、別の場面では関心が向いていないように映ることもあります。
外から見ると一貫性がないように見えても、本人の中で判断基準が揺れているわけではありません。
「役割だと感じたから動いた」「役割だと感じなかったから動かなかった」。
相手の気持ちを軽視しているというより、判断材料として最初から含まれていない状態とも整理できます。
この関係では、考える側に負荷が集中しやすくなります。
踏み込まれれば負担を感じ、距離を取られれば拒絶されたように感じる。
一方で、相手側では「特に問題は起きていない」という認識のまま、関係が続いている場合もあります。
話し合えば分かり合えるはずだという前提があると、このズレは見えにくくなります。
その結果、自分の感じ方がおかしいのではないかと、内側で処理し続けてしまうこともあります。
整理してみると、これは愛情の有無や努力不足の問題とは限りません。
「考える傾向」と「あまり考えない傾向」が、同じ距離感で関われるという前提自体が成立しにくかった、という見方も成り立ちます。
違いに気づいたからといって、関係が変わるとは限りません。
ただ、「ここが違う」と分かることで、同じ反応や理解を無理に期待し続けなくて済む場合があります。
どちらが正しいという話ではありません。
ただ同じ家庭の中では、考える側のほうが消耗しやすい構造になりやすい。
その前提に気づいたとき、距離の取り方や期待の置き方を調整する、という整理が生まれることがあります。

