人との関係の中には、大きなトラブルや衝突が見当たらないにもかかわらず、やり取りを重ねるほど、気持ちの負担が増していく状態があります。
強い言葉を向けられたわけでもなく、明確な対立があるわけでもない。
それでも、関係が続く中で疲労感だけが残っていく。
このような状態は、感情の相性や性格の問題として捉えられることが少なくありません。
ただ、実際には感情そのものよりも、関係の中で「判断の主語がどこに置かれているか」が、消耗に関わっている場合があります。
主語が自分にない関係では、意思や判断が確認されないまま、相手の前提や都合の中に組み込まれていくことがあります。
「普通はこうする」「家族なんだから」「その方が自然」といった表現が使われる場面では、選択肢が示されているように見えても、実際には決定の軸が相手側に寄っていることもあります。
このとき起きているのは、表面的な合意というより、判断の主語が少しずつ自分から外れていく過程です。
明確に拒否されたわけでも、強く押し切られたわけでもないまま、気づけば相手の理想や段取りに合わせる役割が定着していきます。
主語が自分にない状態が続くと、行動そのものよりも、考える負荷が増えやすくなります。
自分がどうしたいかを考える前に、相手がどう感じるか、どう受け取るかを先に想定する必要が生じるためです。
その結果、感情の調整役や、場を整える役割を引き受ける状態が固定されやすくなります。
関係は穏やかに保たれているように見えても、判断の主語が戻らないままでは、消耗だけが蓄積していくことがあります。
距離や同居・別居といった関係の形そのものが、直接的な原因になるとは限りません。
主語が自分にあり、役割が固定されていない関係であれば、物理的な距離は柔軟に調整できる場合もあります。
一方で、主語が自分に戻らないまま関係が続いていると、表面的に安定して見えていても、心の負担は減りにくくなります。
消耗の正体は感情の強さではなく、選択と判断の主体がどこに置かれているかにある、と整理することもできます。



